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「人とつながりを感じながら働きたい」 おにぎりをとおして人と出会う、青おにぎり(2)

特集 「わたしの住む街」

会いたい人と好きな場所がふえることで、今いるこの場所をもっと、好きになれるんじゃないだろうか。

「自分の住む街のことを知りたい」と思って始めたこの企画。京都の気になる人や場所を訪ねていきます。

前回のお話はこちらです。
「人とのつながりを感じながら働きたい」(1)

 

「人とつながりを感じながら働きたい」
(インタビュー 青松としひろさん)

青おにぎりの店内と青松さん

自分は、これからどうしていきたいのだろう?
旅の途中、気持ちがさまよいだした青松さんは、一度、頭をリセットしてみることにした。「カレー屋さんをする」という考えを白紙に戻し、よく考えてみよう。

そのとき、チベットを訪れていた青松さんは、ふと、昔みた映画のことを思い出した。

『ガイアシンフォニー 第2番』

ダライ・ラマ14世が好きだという青松さんは、彼が目的でその映画をみた。こうしてチベットを訪れたのも、ダライ・ラマ14世の影響だった。そのドキュメンタリー映画には、ダライ・ラマ14世以外にも何名かの出演者が出演していたが、ひとり、見たことのない名前があった。

「佐藤初女」さん。
※青森県の岩木山麓にて「森のイスキア」を開く。悩みを抱えた人々が「森のイスキア」を訪れると、心をこめた手料理をつくり食卓をともにし、彼らの心の傷を癒した

佐藤初女さんといえば、彼女のにぎるおにぎり。海外を旅していたからだろうか。日本食に興味がわいた。そういえば、おにぎりって日本を代表する食べ物だ。

心に引っかかるものがあった青松さんは、旅の終わりに「森のイスキア」を訪れようと計画するも、雪により閉鎖中。ということで後日開かれた、佐藤初女さんの講演会へと足を運んだ。

 

全部がつながる瞬間。

 

「特別すごいことをしているわけではないんです。みんなが家庭でもできることをずっとしているだけです」
この人が佐藤初女さんなのか。そう思いつつ、青松さんは話を聞いていた。

「オーガニックのものにこだわってというわけではなく、ただ食べ物に感謝して、丁寧に料理して、みんなで食卓を囲む。みんなでお話しながら食べると、いきいきしますよね。
そういうことがないと、心がつかれたとき、くじけたときに、どんどん病んでいってしまったりする。
でも食卓を一緒に囲む人がいれば、何か少し失敗をしてくじけたりしても、また頑張れる」

その話を聞いて、青松さんはひらめいた。
・・・食卓、みんなで囲んで、顔を合わせて、いただきます。
顔を合わせて。
顔を合わせて、おにぎり!
カウンターで顔を合わせておにぎりをにぎれば、「ライブ感」があるし、いい!

あふれだすアイデアを、ひたすらノートに書き出した。
店内は全部カウンター席にする。お店のおもてには釜を置いて。
店のなかでは、おばあちゃんが座っておにぎりを食べている。その横では、お母さんに連れられて来た子どもが嬉しそうにおにぎりを頬張っている。

そうだ。お店に来てくれた子どもが描いてくれた絵を、壁にはったらどうだろう。
青松さんは講演をきくことも忘れ、ただただ膨らむイメージを書き出した。

「そのときに、もうここまで描いていたんですよ」
と青松さんは言う。今のお店をつくっているものの多くが、そのときに思いついたものだと言うから、私は驚いた。

自分がやってきたことが、全てつながった気がした。人力車のアルバイトをしていたから。『ガイアシンフォニー』をみていたから。チベットを訪れたから。講演会に足を運んだから。
自分が求めていた「何か」が見つかった。

人と人とのつながりを感じながら仕事をしたい。
人生のなかでみれば一瞬のような時間だとしても、そのちょっとの時間に交わされるささいな会話、誰かの思いやりが、ふっと気持ちを軽くしてくれることがある。何でもないやりとりに、顔がほころぶ瞬間がある。

自分と社会のあいだに、何をはさんで、人とつながることができるだろうか。
「人との関わりをどうもつか。その道具としておにぎりを選んだんですよ」
と青松さんは言う。

25歳。おにぎり屋をしようという目標が定まった。
ここからどうやって、自分の思いを実現していくのか。あふれる疑問を胸に、私は、青松さんの話に聞き入っていた。

 

たとえ「無理だ」と言われても。

 

「おにぎり屋をしよう」

そう決意した青松さんは、東京のおにぎり専門店で修業を始めることにした。
お客さんへの接客、配膳から始まり、お米の炊き方を学んでいく。

修行にかかる時間は人それぞれだったというが、最初のステップがうまくできないと、次の作業にはいかせてもらえなかった。働いている人のなかには、1年ほどお店にいて、まだ一度もご飯を炊かせてもらえていない人もいた。
修行を重ね、半年ほどが経つと、青松さんはおにぎりをにぎっていた。

3年間、お店で修業を積み、青松さんは京都に戻ってきた。お金がなかったため、開店資金をためるべくアルバイトに明け暮れること1年。
「青おにぎり」をオープンしたのは、青松さんが29歳のときだった。

周りの反応はどうだったのだろう。
「反対されるようなことは、なかったですか?」
気になった私は聞いてみた。

親には、反対されるというより、心配されました、と青松さんは言う。
「おにぎりだけではやっていけないだろう」
自分よりも年上の大人たちからは、そんな言葉をたくさん聞いた。
おにぎりだけではだめだ。経営が成り立たない、と。無理だと言われ続けた青松さんは、それで一度考え直すのかと思いきや、闘志がわいてきた。

「無理って言われたら、無理って言っている人がいけてなく思えて。
絶対にみんながいけてるって言ったやつなんか、それで成功するんやったら、みんな成功してるやん。
みんなに最初は、『は?』って思われてるぐらいのほうが、やりがいがあるやんと思って。
実際、自分のなかではやってみたいとめっちゃ思うから、その気持ちが大事やんか。
それでミスったらまだ20代やし、なんとでもなるやろうと思ってね」

思い立ったそのときから、毎日、考え続けてきた。どんなおにぎり屋さんがいいだろう、と。

リアカーでおにぎりの販売をするのはどうだろう。人力車のように、人力でリヤカーを押して、おにぎりを売りに行く。

服装も、ふつうの格好ではおもしろくないから、農民みたいなはっぴを着よう。昔の豆腐屋さんみたいな雰囲気で。リヤカーをひいて、木箱のなかには、オリジナルパッケージのおにぎりを並べる。

街中で売っていたら、おばあちゃんに、「これ何しよるんや?」って声をかけられて。
「おにぎり売ってるんですよ、おばあちゃん1個買って下さいよ」って言って。
おばあちゃんは、「家におにぎりあるからいらんわ」って。
通りがかりのおっちゃんが、「おもしろそうやな、頑張ってるな。よし、これ全部買ったるわ」って言ってくれたり。

「そうやって、ノートにセリフまで書き込んでたんですよ」
青松さんはそう言って笑う。

ええ。この話、想像だったのか。最後までふんふんと聞いていた私は、驚いた。東京で修業をした3年間。こうして、自分の思いやアイデアを、ずっとノートにつづっていた。

「無理だろう」
周りにそう言われても、やめる気にはならなかった。やらないでいる理由なんて、青松さんのなかには、もう見当たらなかったのだろう。

 

おにぎりを売りに、街に出る。

 

仕事として、おにぎり屋で食べていく。そのためには、どうしたらいいのか。

お店に立っているだけでは商売として成り立たないだろう、ということは想像していました、と話す青松さん。じゃあ、どうすればいいのか。修行をつんだ東京のお店では、店の営業のほかに、卸売の仕事があった。店と卸の売り上げを合わせて、経営が成り立っていた。

じゃあ自分も、卸の仕事をしようか? でも、まだ名前の通っていない自分の店が、相手にされるとは思えないし、それでは、自分のやりたいことからも離れてしまうのではないか。
車におにぎりをつんで、大学や病院に卸に行く。納品分のおにぎりを渡せばお金をもらって終わり。
それでは、自分の求める人と人とのつながり、というのは、感じられないのではないだろうか。

リヤカー販売では、大した収入にはならないだろう。でも、色んな人に知ってもらえるきっかけにはなる。それに何より、人とのコミュニケーションがある。街に出ておにぎりを売れば、自分がやりたかったことができる。

リヤカー販売とお店の営業は同じ時期に始めたそうだ。このリヤカー販売を手伝ってくれたのが、青松さんの同級生だった。はじめ、この友人が手伝いたいと言い出したとき、青松さんはその申し出を断っていた。

この先どうなるか分からないのに、友達を巻き込んで泥沼状態にでもなったら、やっぱりいやだ。それに、共同経営はよくもめるという。一緒に力を合わせることで出来ることもあるかも知れない。
だけど、自分が思い描いてきたイメージを、実現しにくくなる可能性もある。でも手伝ってくれる人がいるのは、自分にとってはすごくありがたい。

青松さんいわく、「最悪の条件をつけた」というが、それにも関わらず、「一緒にやりたい」とその友人は言った。ふたりで街に出て、おにぎりを売る。リヤカー販売を始めて間もなく店舗がオープンすると、リヤカー販売はその友人にまかせ、青松さんはお店に立った。

「今では、この彼がいたから青おにぎりがあるというぐらい、感謝の気持ちしかない」
と青松さんは話す。

ふたりではじめた青おにぎりだが、今は青松さんがひとりお店に立ち、リヤカー販売はやめたのだそう。お店が忙しくなり始め、リヤカー販売のおにぎりをつくるのが難しくなってきたのと、友人が結婚を機に、田舎に引越すことになり、お店の営業一本にしぼることにしたそうだ。

「これがその彼なんやけど」
と青松さんが指差す方向に目を向けると、ふたりが映る写真がかけられていた。青おにぎりを始めたときにとった写真。笑顔がなんだか初々しくみえて、まぶしかった。

自分が求める「何か」を探し続けた青松さんは、こうして自分の思いをかたちにした。
でもほんとうに大事なのは、その「何か」が見つかってからなのかも知れない。

どうして、青松さんは今も変わらず、おにぎりをにぎっていられるのだろう。お店に、立ち続けているのだろう。ひとつのことを続けること。やめないでいる理由を、誰よりも私が、知りたいと思った。

 

つづき人とのつながりを感じながら働きたい」(終)

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writerWRITERこの記事の作者
衣笠美春

この記事を書いたひと 衣笠美春

フリーライター。 インタビューが好きです。 2017年3月にインタビューの個展「ここにあるもの」を開催。 ご連絡は、お問い合わせからお願いします。
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